繋ぐべき技術と誇り|匠の技03

「繋ぐべき技術と誇り」

「地下一階に降りたところにサービス部門(現在の制作技術グループ)があり、そこでお客様が機材をチェックしていたり、奥ではいかにも職人って感じの人が機材をいじっていた。私はカメラには詳しくなかったけれど、『これは面白そうな仕事だなと思った』」

 

名取は就職活動として、当時六本木にあったオフィスを訪ねた時のことを今も鮮明に覚えている。

 

入社後、そんな先輩たちに囲まれて仕事をするが、「弟子と師匠のように口うるさく指導された記憶はないですね。ただ彼らの仕事ぶりから「『諦めない』『最高のものを提供する』というプライドはひしひしと感じました」と当時を振り返る。

 

名取が入社したのは1976年。当時のサービスエンジニアには、東京オリンピック(1964年)の記録映画を制作した市川崑監督のグループ、いわゆる市川組と行動を共にして期間中24時間体制で機材のメンテナンスを担当した者、70年の大阪万博の記録映画において、同じく市川組に加わったエンジニアなどが在籍していた。彼らはけっして声高にその実績を自慢することはなかった。けれど「仕事ぶりの端々から『自分たちが映画を支えている』という誇りを感じさせる人たちだった」という。

 

それから40年。今では名取が次の世代へと技術を繋いでいく立場にある。

 

名取はレトロレンズなど製品設計図がない商品などを中心に、自身の作業工程を細かく写真に収めコツや注意点などを記しコンピューター上に残している。その<名取アーカイブ>を特別に覗かせてもらうと、「外れない場合はシンナーを流す」「内側に接着剤が塗布されている場合あり」といった、マニュアルにはおよそ載っていないマイスターの裏技がこと細かに記されていた。

次世代に技術を継承するために名取がまとめている<名取アーカイブ>の一部。

「こうやってきちんと残しておくことで、次の世代がこの技術を引き継いでくれ、お客様にも迷惑がかからないですからね。まだまだ網羅できていないので、この資料はもっと充実させなくてはいけないと思っています」

 

かつての先輩がそうだったように、名取もことさら“職人魂”といったことを強調するようなタイプではない。むしろ普段は言葉少なく、目の前のレンズに向き合う。だが何気ない会話の際に、自身の仕事に対する誇り、こだわりが見えたりする。たとえばインタビューを終え、雑談をしていた時のこんな言葉に。

 

「自分の担当した機器が使われた作品はやはり気になりますよ。自分もそこに関わった一人だと思っていますからね。ただ劇場で見たりすると、映りが気になってストーリーに入っていけないことが多いんですよ。『あのフレアは演出的な意図なのかな』とか、画面の四隅を見て『よし大丈夫』とつい確認したり(笑)」

名取 勝 (なとりまさる)
制作技術グループ
1976年4月入社 機械科卒