映画のイロハはすべて撮影所時代に学んだ|ユーザーズボイス01

技術の進化で得られるモノ
そして失いかけているモノ

映画キャメラマン

山本 英夫 

インタビュアー: ナックイメージテクノロジー 川瀬 健太
※ 記事内容は公開当時の情報です。 

| USER'S VOICE | USER'S VOICE 01 映画キャメラマン 山本英夫

プロフィール

1960年生まれ。長野県の高校卒業後、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)へ。アシスタントを経てキャメラマンとなる。
三池崇史、井筒和幸、北野武など多くの監督とタッグを組み、数多くの作品を世に送り出している。

【撮影作品】
「清洲会議」、「麒麟の翼」、「ステキな金縛り」、「アンダルシア 女神の報復」、「アマルフィ 女神の報酬」、「のだめカンタービレ 最終楽章 前・後編」、「真夏のオリオン」、「容疑者Xの献身」、「ザ・マジックアワー」、「恋空」、「パッチギ!LOVE&PEACE」、「フラガール」、「THE 有頂天ホテル」、「パッチギ!」、「着信アリ」、「ゲロッパ!Get up!」、「HANA-BI」、「岸和田少年愚連隊 血煙り純情篇」 他

User’s Voice第1回目は映画キャメラマンとして、トップランナーとして走り続ける山本英夫さんをお招きしました。
「最後の撮影所世代」を公言する山本さんがデジタル化が進む、現在の撮影環境でどんなことを感じ、映画づくりに臨んでいるのか。普段はなかなか聞けない、キャメラマンの映画への“想い”をたっぷりお聞きしました。

映画のイロハは
すべて撮影所時代に学んだ

──

User's Voice記念すべき第1回目はムービーキャメラマンの山本英夫さんに登場頂きます。普段、『英夫さん』と呼ばせて頂いてるので、今回もいつも通り進めさせて頂きますね。

山本

どうぞどうぞ、ご自由に(笑)。

──

このコーナーでは撮影機材などハードの話だけでなく、撮影監督、キャメラマンがどんな想いで作品に向き合っているのかなど、普段、我々が知ることができない、映像づくりへの想いなどを聞けたらと思っています。そこでまずは、今、トップランナーとして走ってらっしゃる英夫さんが「いかにしてムービーキャメラマンの道に進んだのか」ということから話をはじめたいのですが。そもそも映画好き、映画少年だったんですか?

山本

「はい、幼い頃から」と言いたい所なのですが、実際は映画とは無縁の暮らしでした。はじめて映画館に足を運んだのが高校生の時。観たのが東映の暴走族映画ですから(笑)。芸術論を闘わせる映画少年ではまったくなくて、高校時代は柔道部に所属し、毎日のごとく先輩からボロ雑巾のように投げられる。そんな青春時代でした。

──

高校卒業後、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に進まれますが、そのきっかけは?

山本

高校3年になって当然進路を考えるわけです。一応進学校なので、大学受験を目指すのが普通なのですが、僕はあまのじゃくだったのかなぁ、「このまま普通に大学に行って就職して」ということに疑問を感じはじめたんですね。かといって自分のやりたいことが何かは見つかっていない。そんな時にこの学校の存在を知って、「映画か?」って何となく引っかかった。クリエイティブな仕事にちょっと興味を抱いたんです。ただそれもすごく軽い考えで「専門学校は2年間だから、卒業したら20歳。いくらでもやり直しができる。とりあえずはこの学校に行くか」、という感じでした。

──

「何が何でも映画業界へ」って感じではなかったのですね。

山本

おそらく同期の中でも、もっとも映画に疎い存在だったんじゃないかな。大学を卒業してからあらためて入学した、あるいは社会に一回出たけど映画の夢を諦めきれずに、という映画マニア、映画青年って人が多かった中にあって。「〇〇監督の初期の作品はさ?」とか言われても、「誰だそれ?」って感じで。最初は同級生の会話にほとんど付いて行けませんでした。

思い返してみると、そんな予備知識がないこと、大きな夢を持ってなかったことが逆に良かったのかもしれません。学ぶことすべてが新鮮だったし、だから色んなことを素直に吸収でき、2年間で映画に対する興味がどんどん強くなっていきましたから。

──

キャメラマンへの道はどのようなきっかけで?

山本

最後に卒業制作という、いわゆる卒論に相当する作品づくりがあって、そこで僕はキャメラマンをやったんです。大半が監督志望か役者になりたいって連中で、多分やる奴が誰もいなかったから「仕方ない。じゃあ俺、キャメラマンやるよ」って感じだったと思うのですが、やってみたら妙にしっくりきて「面白い」って、その時にはじめて思った。それで周りにも「キャメラマンになりたいかも」というようなことを漏らしていたら、指導の先生だったプロの方から「山本くんはキャメラマンになりたいんだって?」と声をかけて頂いて「ええ、そうですね~、なりたいかもしれないですね」と(笑)。それで、当時テレビ映画を量産していた撮影所のひとつ、国際放映を紹介され見習いとして働くようになったわけです。

──

その段階で明確に自分の進むべき道が決まった?

山本

いや、見習い段階ではまだですね。流れに身を任せたって感じで。まだ迷っていたのかもしれません。ただ、ものすごく忙しくて、かつ覚えなくちゃいけないこともたくさんあるから、迷っている暇なんかなかった、っていうのが現実かな。

撮影所のキャメラマン見習いというと、若い人には想像ができないかもしれないけれど、雑用から機材の設営まで何から何までやらされ、それでまだ助手以下の存在だから給料はお小遣い程度。当時はテレビ映画全盛期でしたから、その忙しさたるや本当に寝る間もないって感じ。そんな中、見習いとして付いたキャメラマンが、すぐに助手に引き上げてくれたんです。だから実は僕は3ヶ月くらいしか見習いやっていない。その意味では、そこでとても生意気な助手が生まれちゃった(笑)、ってことになりますね。

助手になった最初の2~3年はほとんど余裕なんてなく、機材のこと、撮影の常識・作法、照明部や演出部などとの調整など、色んなことを現場で叩き込まれました。なおかつ若いから遊びたい(笑)。明け方まで撮影して、怒られまくって、それから遊びに行く。自分でもよくできたなと今振り返ると思います。で、少しゆとりのできた4年目くらいかな「この仕事で生きていこう」「キャメラマンになろう」って思ったのは。

──

撮影所で映画、撮影のイロハ、すべてを学んだわけですね。

山本

ある意味、僕らが撮影所のシステムを知っている最後の世代でしょうね。監督、キャメラマン、照明、衣装、大道具、小道具、録音などが撮影所という会社と契約し、いわゆる契約スタッフとして社員スタッフと共に映画をつくっていく。それには功罪あったと思うけれど。自分のキャリアを振り返ると、あの現場で揉まれた経験は大きいですね。

映画っていうものはどうつくるか、キャメラマンっていうのはその中で、どんな役割を担うのか。ただ監督に言われた通りに画を撮るんじゃなくて、台本をしっかり読み込んで、自分なりの考えを持って撮影に臨まなきゃいけないこと。若造からしてみたらおっかないオトナたちが時に怒鳴り合いながら、真剣に映画に向き合ってひとつの作品をつくりあげていく。そんな撮影所での仕事のやり方が、今でも自分の肌に染み付いています。自分より下の世代とジェネレーションギャップってものがあるとするなら、こうした撮影所を知っているかどうか、ってことじゃないかと思いますね。