ドドック博士インタビュー

映画業界の技法や技術を特集している国際的な情報誌「FILM AND DIGITAL TIMES」2014年2月号に掲載された記者ジョン・ファウワーによるカール ツァイス社へのインタビューです。

 

オーレリアン・ドドック博士インタビュー

ジョン・ファウアー(聞き手・以下JF):今はレンズ設計でお忙しいですか?

オーレリアン・ドドック博士(以下AD):その通りです。ZEISSシネレンズ・デイで新型のレンズを発表したばかりです。120名くらいのお客様をお迎えして開催された素晴らしいイベントで、マスタープライム、ウルトラプライム、コンパクトプライムに加えて、新型のCZ.2シネズームと、マスターアナモフィック・プライムレンズをご覧いただきました。

JF:CZ.2フルフレーム(35mm判フルサイズ)・シネズームとおっしゃいましたね。映画業界は今後、大型センサーに向かうと思われますか?それともアカデミー判に留まるでしょうか?

AD:まず初めに申し上げるべきは、24x36mmのスチル判をカバーするというのは、動画機能付きのデジタル一眼レフでムービーを撮る作家たちの要求を満たすためでした。フルサイズのイメージサークルはアカデミー判の障害にはならないという利点があるので、これが開発当初のアイデアだった訳です。従って、これらの3本のズームレンズは、35mmフルサイズでもアカデミーでもスーパー35mm判でも使用できます。各フォーマットによって、それぞれ撮影画角が異なるだけです。

JF:技術的な観点から見て、こうした大きなイメージサークルのレンズを作るとき、何か犠牲になる要素はありますか?

AD:いいえ、まったくありません。アカデミー判の似た焦点距離のズームレンズを製造している他メーカーの製品と比較したとき、アカデミーが35mmフルサイズの約半分のイメージサークルしか持たないことを考慮すると、弊社のコンパクトズームの寸法は、明らかに小型です。極めて高度なレンズ設計技術を持つ弊社だからこそ完成できた製品です。

JF:どうやってこれを実現したのですか?

AD:さきほど申し上げたように、CZ.2を設計するにあたり目指したものは既存のアカデミー判ズームより大きくならないサイズで、フルサイズをカバーするレンズということでした。CZ.2ズームは、非常に斬新な光学設計概念と特殊ガラスエレメントによる、複合非球面を採用したレンズです。

CZ.2 コンパクトズーム(35mmフルサイズ対応)

CZ.2 70-200mm 28-80mm 15-30mm
絞り T2.9-22 T2.9-22 T2.9-22
MOD 1.52m/5ft 0.83m/2ft8in 0.55m/1ft10in
全長 250mm 196mm 198mm
前玉径 95mm 95mm 114mm
重量 2.8kg 2.5kg 2.6kg

 

JF:これらのレンズは物理法則に反しているようですが。

AD:それに近いですね。ツァイスの先進的光学技術や精密機械工学、計測システムを駆使して、既存の性能限界に挑戦した結果、画質および製造性の最適化と安定性を兼ね備えた光学設計が実現しました。我々はこのレンズを、サイズがコンパクトだからコンパクトズームと呼んでいますが、品質はコンパクトプライム・シリーズをはるかに上回り、性能はウルトラプライム・シリーズに匹敵します。レンズ作りにおいては設計も非常に重要ですが、高い製造技術と計測技術も必須であり、優れた映像体験は完璧な光学製品からしか生まれないものであることを、我々は過去の歴史から学んでいます。言うなればツァイスの高度な精密非球面レンズ技術のみがもたらすことのできた体験なのです。

多くのメーカーは非球面レンズを研削研磨によって製造しています。求められる品質基準が高いため、成型による非球面レンズは問題外なのですが、一体何社のメーカーが高品質な非球面レンズを日産100本製造できるでしょうか。

ガリレオ・ガリレイの望遠鏡は、誰でもご存知かと思います。私は数年前にフィレンツェの科学博物館で見る機会を得ましたが、そこではレンズを取り出して形状を計測する機械に載せてあり、レンズが僅かに球面からずれていることが示してありました。私はそこで、ガリレオはどのように意図的に非球面にしたのか質問してみましたが、意図的に作られたものではなかったようです。ガリレオは、(自分が磨いたレンズが)球面でないことは知らなかったのです。しかし長期間掛けて、試行錯誤しながら磨き「さっきより良くなった」とガリレオは言ったかも知れません。「次はここをもう少し磨こう…いや…あそこをもう少し削ろう。」こうして結果的に最適な形状のレンズと、当時の常識を越えた高品質な望遠鏡を巧まずして作り上げたのです。こうしたレンズ仕上げには非常に時間がかかりましたが、大半のメーカーはこの方法で精密レンズを作っているのです。

非球面レンズの望遠鏡を持つガリレオ・ガリレイ ユストゥス・スステルマンス(1597-1681)作の肖像画 (ロンドン、グリニッジの国立海事博物館所蔵)

(非球面レンズは曲率が複雑で、光軸からの距離によって曲率が変化する。球面レンズは、収差が出やすく、光を一点に集めることが困難である。しかし非球面レンズは、光を一点に集めることができるので、より高い解像度を出すことができる。ガリレオ自製の望遠鏡のオリジナルは二つしか現存しないが、それらはフィレンツェの科学史博物館に保存されている。デニス・オーバーバイは2009年3月27日付けのニューヨーク・タイムズ紙の記事で次のように述べている。「(その望遠鏡は)400年を経てまだらに色焼けして、ゴルフクラブほどの長さで周囲がそれよりやや太く、ずんぐりした管のようだった。管の焦点距離は、ガリレオ・ガリレイ自身の手で『piedi 3』つまり3ft.と書いてある。」)

そのため、設計技術だけでは十分ではなく、優れた製造技術も必要なのです。この2つを兼ね備えて初めて高度先端技術と呼ぶにふさわしく、これなしでは精度の極めて高い製品を短期間で大量に製造することは不可能でしょう。また、製造工程、組み立て、調整も、完璧でなくてはなりません。これらを実現できるのは長年にわたって高精度な計測技術の経験を持ち合わせている企業に限られます。ツァイスは世界水準のMTF測定装置や干渉計など自社で使う計測機器をすべて内製しており、他社製の計測器に依存する必要のない独自の立場にあります。

JF:マスターアナモフィックについて聞かせてください。小型で高性能を達成するために、自由曲面エレメントを使用しているのですか?

AD:自由曲面はありません。設計初期にはそれを検討したこともありましたが、自由曲面の表面は製造が困難かつ高価で、精度確保も容易ではありません。私は以前、カールツァイスSMT社のリソグラフィ部門で自由曲面の設計を担当していましたが、同部門の技術力の高さを十分に理解した上でもそのようなリスクを冒したくはなかったのです。

しかし今回のアナモフィックでは、自由曲面は全く必要ありませんでした。我々はシリンドリカルレンズを使ってレンズ内部で焦点距離を二つに分け、何枚もの高精度非球面と多くの特殊ガラスを使用して高度な補正を行っています。その結果、驚異的な性能を誇る素晴らしいレンズ群が完成したのです。

JF:マスターアナモフィックの最大の特徴は何でしょうか?

AD:ボケですね。断然ボケです。 これまで我々が見てきたボケの中で、最良のボケだと思います。弊社はボケには長年取組んできました。数学的観点からすれば、完璧なレンズを作ることは可能ですが、難しいのはそこに特別な映像特性を与えることです。レンズに特別な芸術的なルックを持たせるには、知識と経験が必要です。マスターアナモフィックには、他のプライムレンズには見られない滑らかさがあります。これは非常にユニークなものです。私は説明が難しいものをルックの一言で片付けてしまう他社と一緒にされたくないので、あまり「ルック」という言葉は使いたくないのですが。

JF:我々撮影監督が監督やプロデューサーにレンズの説明をしようとするときに抽象的な言い方をしてしまいますから、何らかの表現を「ルック」と呼ぶ悪い習慣を作ってしまったかもしれませんね。美味しいワインや美女について説明するようなもので、これは物事の形容であって、科学的な説明ではないのです。「クック(Cooke)ルック」という表現がありますが、これはイギリスの一部の撮影監督が使い始めたことが発端と記憶しています。そして今ではすっかり定着してしまいました。

AD:ジョン、私は映画が大好きです。私は映画を見るときはいつも、その作品について意見を言ったり、映像に表れた技術的問題や、そのシーンに使用されたであろう技術を推測してみるのです。

一般的にはあの楕円形のハイライトを目にした時にアナモフィック撮影であることに気がつきますが、アナモフィックレンズで非常に重要なのは、あの楕円形ハイライトが見える夜景でのボケではなく、日中のアウトフォーカス部分の形なのです。焦点が合っていない被写体は、スクリーンでどのように見えているのだろうか。非常に強い芸術的意味を持つと思います。芸術的であることの定義は人それぞれですが、その中にも万人に共通する「普遍的な美」というものは存在するはずです。我々はそれを探求し、見出したのです。

JF:同感です。どのようにしてこの独特なボケ表現に到達したのでしょうか?

AD:これにはレンズの構造と、シリンドリカル・エレメントの配置に関係があります。まずは通常の球面レンズから話を始めましょう。画像には非点収差はないとしましょう。無非点収差というのは、被写体の一点から出た複数の光線が、画像の一点に集束するということを意味します。従って、画像を形成しようとする場合は光束を一本に束ねる必要があり、被写体の一点に対しては像も一点でなければなりません。
アナモフィック光学系では、垂直な二つの平面に焦点距離が二つ存在する、というだけのことではありません。

アナモフィックレンズでは、焦点を結んでいない被写体の一点については、像の点が一つでなく二つある、という他レンズにはない特徴があります。この像には非点収差が発生し、これはアナモフィックの原則として知られています。 これは、被写体上の合焦していない他の点についての原則で、像には点が二つあります。そしてそれらが互いにどのくらい離れているかを証明するだけでよいのです。これは二点の相互作用になりますが、フォーカス外にある場合は独特の形を成し、それがアナモフィックレンズの主な効果となります。

ARRI/ZEISSマスターアナモフィック T1.9セット:35、40、50、60、75、100、135mm

通常のプライムレンズではフォーカス外にある被写体は、ある一点のボケた像は正しく点対称です。この場合はピントが合っていなくても、脳はそれが何かを充分判別できます。ヒトの脳は画像の計算や分析についてよく訓練されています。我々の視界の隅のほうで何かが起きた場合、我々の脳は何が起きているかを瞬時に計算します。これはおそらく、空腹の大型肉食動物が君臨していた時代の遠い祖先から、受け継いだ能力でしょう。ピントが合っていない像でも素早く分析し、危険を察知することのできる脳を持ち合わせた人間だけが進化を許されたということです。

JF:フォーカスの適者生存…ということですね。

AD:あなたの正面ではなく、横から何かが突進してきたとき、あなたの脳はピントの合っていない横からの像を即座に分析し危険に対する警告を発します。この眼と脳の機能は、非常によく訓練されているのです。現代では肉食動物ではないでしょうが、ピントが合っていなくとも車が視界に入れば車であると判断できますね。

この脳のメカニズムは、アナモフィックレンズのように点像を二つ持つ非点収差の場合は機能しません。脳は非点収差のある映像の中ではフォーカス外にある被写体の認識ができません。この現象こそがアナモフィックのボケに独自の魅力を与えるのです。

だからアナモフィックは面白いのです。わからない物は知りたい。ヒトは好奇心の強い生き物で、脳は不明瞭な物体を放っておけません。「あの背後に映っているものは何?」脳はフル稼働して分析しますがわからない。これが私のアナモフィックのボケについての解釈です。

JF:アナモフィック映像の魅力についてこんなに面白い解釈を聞いたのは初めてです。「まるで3D映像のようだ」と表現する人もいますね。

AD:アナモフィックでは被写体は周囲から隔てられ、あたかも目立たせたような独特な見え方をしますね。観客は被写体の背後に見える何かを判別しようとするのですが、特定はできない。これを全て観客の無意識下で働きかけているのがアナモフィック映像の魅力です。

シーンの背景に何があったかと尋ねられても、それが大きくフォーカスアウトしていたら、答えられません。「緑色だったからたぶん木だと思う」とまでは言えますが、それはあくまでも色から推測しているのであって、形からではありません。何かがそこにあることはわかるのですが、特定はできないのです。

JF:2007年にARRIのプロダクトマネージャーであるマーク・シップマン=ミュラーと私はベルリンで落ち合い、3日間かけてオーバーコッヘンとイエナのツァイスの工場と光学博物館を見学しました。当時ARRIとカールツァイスは共同で新型アナモフィックレンズの製品企画の第一段階にありましたが、マークはアナモフィックのルックに求められる要素について撮影監督としての私を質問攻めにしました。この3日間は、好みの映画について、そして何がアナモフィック・ルックに貢献しているかという話ばかりしていました。あなたはレンズ設計者として、どのようにレンズ設計を始めるのでしょうか?

AD:初めは試作プロジェクトとして始まり、それから一本のレンズが企画されました。T1.4で大型で重く高価で、製造するにも大変複雑というレンズでした。私がそのプロジェクトを引き継いだ時にまず目標に掲げたのは、独特な描写特性を持ち、光学的構造が共通のレンズシリーズを作るということでした。次に仕様を決めていきましたが、そこにはルックについては何も言及がありませんでした。まあ「ルック」について明確に定義できる人はいないでしょう。どのような「ルック」を理想とするのかは実際の映像を見ながら話し合うしかないと思っていますが、私はこの方法が好きなのです。

もう一点言及すべきことがあるとすれば、良い映像の判断基準は人によって異なるということです。万人向けと呼べるような基準が無い中でのレンズ設計は簡単ではありませんでした。

先にもお話ししたように、私は映画がどう体感されるかに非常に興味があり、アナモフィック作品も数多く見ていますが、我々の設計したレンズは既存のアナモフィック作品の映像を踏襲したものではありません。我々は新しい概念、「シネマティック(映画的)」と呼べる効果をもたらすレンズを作りあげたのです。 一切の制約のない中で理想とするレンズを作る、アナモフィックレンズの光学設計は極めて高度なレンズ設計の授業を行うようなものです。

新しいアナモフィックレンズの設計図と計算式をプロジェクトチームに見せた時、これはもう我々の設計図、経験、勘、技術に全てを託して成功を信じるしかないと覚悟を決めました。

 

JF:まるで製品サイクルが早いのでプロトタイプが即ち完成品となるツァイスのSMT(半導体製造技術)部門のようですね。

AD:そうです、私はSMTのリソグラフィ部門に8年間いました。マイクロチップを製造するレンズ設計を担当し、オフィスの壁には「ムーアの法則」が大書してありました。ここでは18ヶ月でチップの性能が2倍になるのです。つまり私たちは18ヶ月以内に急速に小型・複雑化するチップを作ることのできる次世代レンズを設計・製造しなければならなかったのです。SMTでの仕事は皆さんがこれ以上小さなものはないだろうと思う物体の更に1/1000の大きさの単位での精度を要求されました。アナモフィックレンズ設計の現場も同様に、毎日が精度の限界との格闘でした。

JF:ツァイスで働き始めたのはいつ頃のことですか?

AD:私がオーバーコッヘンのツァイスを初めて訪れたのは、2001年3月の寒い雪模様の日でした。そこで社内の素晴らしい人々と出会い暖かい雰囲気に囲まれ、ここに留まることに決めました。素晴らしい出会いでした。

JF:マスターアナモフィックは、許容精度という点ではマスタープライムと同等ですか?

AD:いいえ、違います。前にも言いましたが、私の第一の目標はあらゆるレンズの基礎となる汎用性と堅牢さに優れた光学的構造を確立することでした。レンズ各群にはそれぞれ特化した役割があり、それらのレンズのユニークな構造は、組立と調整を最適化するために設計されています。今回のアナモフィック・シリーズは、各レンズ群の形状はほぼ同じです。形状を同じにすることにより、レンズの製造・組立・調整を最も効率よく行うことができるようになりました。レンズの光束の配置を見ると、光路の曲折が非常に滑らかで、どのエレメントについても特性が最適化されています。ツァイスの誇る豊富な知識と経験の賜物です。

JF:マスターアナモフィックとマスタープライムの見え方の違いはどのように説明したらいいでしょうか? 例えば劇場で、初めにマスタープライムを2.39:1にクロップした映像を、次にマスターアナモフィックで2.39:1に伸ばした映像を見た場合の違いについて教えてください。

AD:アナモフィックレンズの定義を、少し違った観点で見てみましょう。アナモフィックプライムとは要は焦点距離を二つ持つレンズのことなので、ツァイスのアナモフィックレンズはマスタープライムを2本統合したようなものです。ですからマスタープライム1本が水平方向に、もう1本が垂直方向にあるわけです。焦点距離が二つある1本のレンズです。これは実際には二つに分けることはできませんが、設計の観点から見ると、一方の構造を取り出して、回転して点対称にすることは可能です。撮影後には像をディスクイーズして伸ばさないといけません。ボケ表現だけではなく、マスターアナモフィックの映像はこれまでとは全く異なるものなのです。

ここでもう一点付け加えさせてください。撮影監督の中にはマスタープライムは完璧すぎて使いづらいという人がいるようです。コントラストとシャープネスに非常に優れたほぼ完璧なレンズであれば、撮影後の編集段階でどのようにでも映像は変えられます。映像を悪くすることもできます。しかし、品質の劣ったレンズで撮影されたソフトな像をシャープにすることはできません。被写体情報が足りないので、柔らかいレンズからシャープな映像を得るのは不可能なのです。

しかしマスターアナモフィックは、非常にシャープであると同時にやや滑らかな像の実現に成功しました。マスタープライム級の解像度を維持しつつ、スキントーンについては絹のような滑らかさが感じられます。マスターアナモフィックであれマスタープライムであれ、どちらのレンズも我々の製品コンセプトでは必須の共通特徴を備えており、絞り開放から最高の光学的性能が画像全体に渡って一定して得られます。これは、アナモフィックレンズの世界では今までになかったユニークな特長です。

JF:アナモフィックは今後も拡がっていくと思います。過去の作風の繰り返しだとか今だけの流行だとか言う人がいますが、私は将来もずっと続くと思います。いかがでしょうか?

AD:ええ、そうですね。「球面レンズではなく点対称でないレンズを使うのはなぜか」という質問を良く受けますが、アナモフィックレンズ撮影では像により一層芸術的な効果が出せるからです。アナモフィックの映像は素晴らしいので、もっと多くの映画作品がアナモフィックで撮影されるようになるとよいと思っています。劇場で映画鑑賞をするのは楽しいものです。そして自分が観ているまさにその映画が、自分が設計したレンズで撮影されたとわかった時の満足感は譬えようがありませんね。